法円坂の歴史


 当院の所在地は、江戸時代は代官屋敷が置かれ鈴木町と呼ばれていた。明治2年に大坂府がここに大坂府医学校病院を創設し、翌年にはこれが大学(後の文部省)の管轄になったが、明治5年に文部省による学制改革で大坂医学校が廃された。(これに困った大坂府は有志から寄付を仰ぎ、翌年、西本願寺津村別院内に大阪府病院を建設した。これが現在の大阪大学医学部の前身である。)
 廃校になった鈴木町の大坂医学校の跡地には、明治6年、創設間もない帝国陸軍歩兵第8連隊が駐屯した。その後、帝国陸軍の膨張に伴って第20連隊や第37連隊が同居していたが、明治30年以来、第37連隊の兵舎となりそのまま昭和20年の終戦を迎えた。(当院の敷地内には37連隊の記念植樹と石標があり、今なお拝礼に訪れる人がいる。)
 明治2年の大坂府医学校病院の職員録には緒方惟準、ボードウイン、高安道純らの名が見られるが、明治2年11月2日には大村益次郎がこの病院で没している。益次郎は9月4日に京都木屋町で萩藩士に襲われて重傷を負い、緒方惟準らが上洛して、10月2日に大坂病院へ移して右大腿部切断術を施すも敗血症で死すと記録されている。大村益次郎の立派な記念碑が当院の東南角に建てられている。明治3年には、この地にエルメレンスが教師として着任し、後の大阪府病院に移って明治10年まで在職し、大坂の医療と医学教育に大きな足跡を残すとともに大阪大学医学部の黎明期を築いた。
 鈴木町から法円坂と改称されたのは明治12年5月27日のことで、謂れは定かではなく、浄照坊の開祖の法円がここに邸宅を構えていたからという説と慶長期以前に法案寺という寺がここにあったからという説がある。
 ともかく、わが国の医学史に名を残した人達がこの地を舞台に活躍したことを銘記し、当院がこの伝統を継承して平成の医療の担い手となることを目指さねばならない。


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