情報で病気を治せるか


数年前のある日、篠原糸美さんが外来受診にやってきた。高知県の山奥からわざわざ阪大病院に来られたのだが、一見して、「筋萎縮側索硬化症(ALS)」の末期に近いことがわかった。この病気は、運動神経と筋肉だけが冒されることが特徴で、4肢の筋肉から始まり、最後は呼吸筋が冒されて死亡する。糸美さんは、足も手もほとんど動かせず、喉頭筋も冒されて言葉も発せられない状態だった。「残念ですが、この病気は今の医学で治す術がありません。美しい故郷で余生を送らせて上げて下さい。」と家族に告げて帰っていただいた。
それから数カ月経ったある日、糸美さんから手紙をいただいた。開けてみると、ひら仮名ばかりのワープロの手紙である。不治の病を自分の人生に与えられた運命だと悟って、明るく元気に日々を送っている、と豊かな表現力で近況がしたためてあった。手が不自由なのに、どうしてワープロを打てたんだろう?。調べてみると、ALSのような指の動かない患者さんのために、瞬きで入力できるワープロが開発されていることを知った。糸美さんは、瞬きでなくて、わずかに動く足の親指で入力したとのことであったが、糸美さんにこんなワープロを勧めてくれた高知医大の先生に感心した。そして、そんなものを知らなかった私は医師として大変恥ずかしいと思った。言葉を発することができず、字も書くことができない、表情もつくれない、つまり、心を表現し、意志を伝えるすべを、すべて奪われていたのが糸美さんである。ワープロで手紙を書けたことが、糸美さんにはどれほど嬉しかったであろうか。
それからさらに数カ月経って、今度は、糸美さんが書いた本が送られてきた。ワープロで書き貯めた、日記や詩や俳句を本にしたのだと言う。「翔べ、自由に」(発行所 静山社 03-3267-6941)というタイトルである。病気との闘い、3人の小さな子どものことを思う母親の心、高知医大の先生との交流などが、感動的に書かれている。池田久男教授は、この本の序文で「・・・患者さんと患者さんをとりまく多くの人々との連携、心のかよいが、患者さんの心の健康にどんなに大切かを教えています。・・・・医師や保健婦の役割やなすべきことが何であるかを教えているように思います。・・・」と述べられている。また、主治医の渋谷恵子医師は、「・・・この1年間の彼女との付き合いから、私は、医師としてとても重要なことを教えられました。彼女からいただくお手紙の内容は、いつも相手への思いやりにあふれた、暖かい、率直な人柄のにじみ出たものでした。いつのまにかお手紙をいただくのが楽しみになり、反対に励まされることが多くなっていきました。・・・」と寄せている。
(糸美さんからの手紙) (「翔べ、自由に」表紙)  不思議なことに、彼女がワープロを手に入れた頃から、病気の進行が止まり、それどころか、寝返りや足を持ち上げることさえできるようになった。渋谷先生が彼女に「どうして改善したと思う?」と聞いたところ、彼女から、次のような手紙で答えてきたと紹介されている。
(原文のまま)「・・・・・せいしんりょくがはたらいているように、おもいません。せいしんりょくより、べつのちからが、くわわっているようなきが、しています。そして私じしんが、かえられていっているのが、わかるんです。しゅじんは、私が、かちきなことをいっていますから、よくなったのは、おまえのしゅうねんだといいます。でも、さいきんの私には、しゅうねん、にくしみ、なおりたいとか、こだわり、よく、そんなものがありません。このままでも、じゅうぶんにいやされたとおもっています。だからべつに、なおりたいともおもいません。かといって、むきりょくではなく、やるきまんまん、いまの私にできることを、せいいっぱいやることが、しめいだとおもっています。『む』のじょうたいに、こころがなったからこそ、ねがえりもできるようになったのだとおもいます。・・・」
どうして改善したのか、これを今の医学知識で科学的に説明することは困難である。しかし、ワープロを与えられて、心の表現ができるようになったことと無関係と言えるであろうか。私たちの体は、限りなく外部から情報を受け入れ、限りなく情報を作って放出している。情報を受け入れる機能を喪失することも大きな苦痛であるが、情報を発する機能を失うことの苦痛も想像を絶するものがあろう。生命においては、情報とモノとは不可分である。情報を発することのできた感動が、脳の神経伝達物質やホルモンの分泌を促し、その何ものかが、修復機能や防御機能に働いて、病気を回復させる可能性だってある。病が気から起こるなら、気から病を治せるはずだし、実際に、これは日常の臨床でも行っていることである。
 ところが、研究となると、今の医学は「モノの医学」全盛である。薬、器械、メスで病気を治すことしか研究対象にしない。私自身、そういう頭であったから、糸美さんに「今の医学では治療できません」とお引きとり願うはめになった。心の表現、情報の発信ということが、精神的やすらぎだけでなく、身体機能にも大きな影響を及ぼすと確信していたら、糸美さんが手にしたワープロのことも日頃から心得ていたであろう。まことに恥ずかしい限りである。恥じながら、「情報の医学」というジャンルを模索しようとしている今日このころである。


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Michitoshi INOUE / President, Osaka National Hospital
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